淡路橋立の台場と砲台をめぐる!
瀬戸内海国立公園に指定される成ヶ島。自然豊かで眺望抜群のこの地は、幕末には台場が、明治には砲台が築かれ、海防上の要衝の地でした。成ヶ島を縦断し、成山山頂から「淡路橋立」を眺望。
コース難易度 ★★☆
標高差:50m未満
距 離:約4km
山道や砂浜を歩きます
2021年3月7日開催
由良の門・成ヶ島の要塞 さんぽコース
13:00
船で移動
13:10
13:45
15:00〜15:50
船で移動
15:15
1. 由良の歴史
由良地区は、洲本市の中で最も長く、深い歴史のある地域です。
古くは縄文時代草創期(約16,000〜10,000年前)の有舌尖頭器が出土した真野谷遺跡からはじまります。
弥生〜古墳時代の製塩遺跡である生石遺跡・高崎遺跡、古代南海道の淡路島の玄関である由良駅、中世淡路水軍の本拠地である由良古城跡、近世大名の居城である由良城跡、幕末海防の要所である台場群、近代防衛の要所である由良要塞があります。
有史以来、それぞれの時代の重要な遺跡が由良地区には残されています。また豊かな自然も残されており、瀬戸内海国立公園に指定されています。
2. 二つの由良城
由良四丁目の山にある由良城跡。これは、戦国時代の淡路島最大の国人衆で、淡路水軍を率いた安宅氏の本拠地です。安宅氏は、阿波の三好氏とともに淡路水軍を率いて畿内を席巻しました。安宅氏の主な城は「安宅八家衆」の城と呼ばれました。
天正9 年(1581)、秀吉の淡路攻めにより由良城は陥落、安宅氏は歴史の表舞台から姿を消すこととなります。以後淡路国は、秀吉配下の仙石秀久(洲本城主)、脇坂安治(洲本城主)、加藤嘉明(志知城主)が治めます。慶長14 年(1609)に脇坂氏が伊予大洲に転封となり、翌15 年に淡路一国が池田輝政に与えられ岩屋に城を築きます。慶長18 年(1613)、池田輝政の三男忠雄に淡路一国が与えられ、由良の成山に由良城を築き、城下町が整備されます。
元和元年(1615)、徳島藩主蜂須賀至鎮に淡路一国が加増され、由良に代官を派遣します。しかし寛永8 年(1631)、徳島藩筆頭家老稲田氏の主導により、城と町を洲本に移す「由良引け」が行われ、寛永18 (1641)
には由良城は破却されました。安宅氏の由良城を「由良古城」、池田氏の由良城を「成山城」とも呼びます。
3. 成ヶ島の誕生
成ヶ島という名がついたのは、最近のことです。ここはもともと島ではありませんでした。北の成山側、南の生石・高崎側は陸続きでした。現在、成ヶ島の古川口と呼ばれるところが港への唯一の入り口でした(右図①参照)。
江戸時代、由良には藩主の御屋敷があり、参勤交代の際には、藩主が立ち寄る場所でした。しかし、古川口は海流のぶつかり合うところで、幾度も砂で埋まり、大型船が入港できないことがありました。そこで、明和2 年(1765)に北側を掘削(新川口)、文政6 年(1823)に南側を掘削(今川口)し、島となりました。右図②は、新川口を掘削している際の図です。今でも新川口の成山側には、池田氏時代の由良城の石垣の一部が残っています。
4. 幕末の台場
嘉永6(1853)年、ペリー来航により幕府の海防政策は転換期をむかえます。その主きは江戸湾防備で、大阪湾については内海であることから、幕府内でも大阪湾防備については楽観的でした。しかし、安政元(1854)年にロシアのプチャーチンが大阪湾に現れてから状況が一変します。
幕府の命により、徳島藩に台場築城の命が下ります。淡路には由良・岩屋・洲本地区に台場が築かれます。台場には2~4 門の大砲が配備されましたが、高崎台場には40 門もの大砲が配備されました。
5. 由良要塞
由良要塞は、東京湾要塞・下関要塞と並ぶ陸軍の一等要塞として、明治22 年(1889)に築城が開始されました。大阪湾に敵艦の進入を許すことは、京阪神の壊滅を意味するため、紀淡海峡の防衛は東京湾に次いで重要視されました。明治36 年(1903)には、鳴門要塞が由良要塞に編入され、明治39 年(1906)には、由良要塞全砲台が完成しています。
国の威信をかけて築かれた要塞も、第一次世界大戦後は主戦場が空に移り、一度も実戦のないまま終戦を迎えました。
6. 高崎台場・高崎砲台
高崎砲台は、幕末の文久元年(1861)に築造されました。
この台場は、後の陸軍砲台に再利用された全国的にもめずらしい台場です。そのため、台場時代のものは、周囲の石垣と土塁の一部、石積みの火薬庫だけが、当時の名残として存在しています。高崎砲台は、明治35 年(1902)、由良要塞の砲台群として築かれました。由良要塞の堡塁砲台の中では比較的遅く、起工から竣工まで4年の歳月を要した異例の砲台です。この砲台の安式加農砲は、隠顕砲と呼ばれる特殊な加農砲が設置されていました。昭和8 年(1933)に要塞整理により除籍されました。
台場時代の石垣の一部は、昭和36 年の第2 室戸台風により崩落し、コンクリート護岸に造り替えられています。
7. 六本松台場
大阪湾防備のため、文久元年(1861)に築造されました。別名オランダ台場とも呼ばれます。
由良地区の台場群の一つで、その規模や構造から、生石台場と同様に高崎台場を補う台場であったと考えられます。
当時の遺構としては、周囲の石垣が一部残存しています。
8. 由良城(成山城)・成山砲台
成山城は、慶長18 年(1613)に池田輝政の子忠雄によって築かれました。輝政は徳川家康の娘婿であるため、忠雄は家康の孫になります。家康は、対豊臣のため大坂城周辺を一族や譜代大名で囲う豊臣包囲網を構築します。この由良城もその一環で、大阪湾に入る豊臣勢の船を厳しく監視していました。
元和元年(1615)、大坂夏の陣で豊臣家は滅亡、忠雄は池田本家を継ぐため備前岡山に戻ります。その後、徳島藩の蜂須賀氏に淡路一国が加増されました。
成山砲台は、第一・第二砲台からなります。明治24 年(1891)に築造されましたが、大正の要塞整理により除籍・撤去されました。
主催:洲本市教育委員会 共催:淡路文化史料館 協力:NPO法人鮎屋の滝ふれあいの郷・兵庫県鮎屋川土地改良区・炬口住民会・春陽荘・三野畑町内会 白巣交流推進委員会・洲本市地域おこし協力隊