戦国時代の城跡[炬口城跡]と近代風水の館[春陽荘]をめぐる
新たに兵庫県指定史跡となった戦国時代の山城「炬口城跡」は古くから栄えた港を守る重要な城でした。国登録有形文化財「春陽荘」では、風情ある美しい和の空間でお茶を楽しみながらちょっと一息してみませんか。
コース難易度 ★★☆
標高差:100m未満
距 離:約4.5km
舗装されていない山道を歩きます
2020年11月22日開催
新たに兵庫県指定史跡となった戦国時代の山城「炬口城跡」は古くから栄えた港を守る重要な城でした。国登録有形文化財「春陽荘」では、風情ある美しい和の空間でお茶を楽しみながらちょっと一息してみませんか。
炬口城と春陽荘 さんぽコース
13:00
13:30
14:45
16:00
1. 炬口・宇山地区の歴史
炬口八幡神社
兵庫県神社誌には、「延喜廿一年(921)、石清水八幡宮より分霊を勧請す」と記されています。鎌倉時代の石清水八幡宮の荘園であった炬口庄は、この神社付近とされています。
秋葉神社
安永8 年(1779)、小川維栄らが人麻呂社を建立。同じころ秋葉神社(火伏せの神)を建立したと伝わります。戦後は祭祀も絶えていましたが、昭和63 年に大改修を行って、祭祀が復活しました。淡路島には、他にも秋葉神社があります。また徳島県美馬市には、徳島藩筆頭家老の稲田氏の居城であった脇城跡の麓にも秋葉神社があります。
泰雲寺(泰雲庵)
享保7 年(1722)、稲田植治が29 歳で死去します。稲田家を継いで僅か2 年でした。その後、弟の植政が跡を継ぎます。宝暦7 年(1757)、植政の妻知芳院は、先代の菩提を弔うため藩主の許可を得て出家、泰雲庵主となりました。以後泰雲庵は、稲田家の菩提寺として、稲田氏定紋入りの位牌が祀られています。
炬口台場跡
徳島藩の命を受け筆頭家老稲田氏により築造されました。文久3 年(1863)に完成。由良・岩屋地区の台場とは異なり、城下町防衛のため築かれています。多角形の石垣、火薬庫跡などが残存しています。
2. 兵庫県指定遺跡 炬口城跡
戦国時代の山城である炬口城は、淡路島の中央東岸の大阪湾に面した標高約 96mの万歳山(別名:秋葉山)山頂に位置しています。
炬口城は、江戸時代の地誌によると永正年間(1504-20)の初め頃に築かれたとされています。国重文の先山千光寺の梵鐘には、永正 16年(1519)に追刻銘されたものがあり、そこに炬口城主安宅秀興の名が確認できます。
また大永 8 年(1528)には、三好氏に反旗を翻した炬口城主安宅次郎三郎が蟇浦城主蟇浦常利と栗原城主島田遠江守に鎮圧されたと伝わります。その他、冬宗や甚太郎、市之助正行などの名が確認されますが、いずれも安宅姓であることから、安宅氏の居城であったと考えられています。
城は本丸・二の丸・出丸からなります。方形区画の本丸は、南北約 50m、東西約50mで、周囲に土塁を施しており、それが南北の堀切をより効果的にしています。本丸内は大きく3つに区画され、中央部分が両側に比べ 1 段低くなっています。東西 2つの虎口は、この中央部分に繋がっています。また西側虎口の出口付近は比較的緩斜面になっており、それを補うように淡路島の城ではほとんど例がない畝状竪堀が施されています。また北側土塁の北西隅には、櫓台のようなものも確認されます。
二の丸は、本丸の北東に位置し、本丸と堀切により隔てられています。この堀切は、淡路島の山城の中でも最大の規模を誇ります。出丸は、本丸から北側へ 100m程のところにあり、堀切が確認されます。石垣出現期以前の城遺構として、非常に残りのよい貴重な城跡です。
3. 国登録有形文化財 春陽荘
昭昭和16 年(1941)、家相方位学の権威である建築家、山本豊圓氏に設計を依頼し、地元の大工棟梁斎藤三吉氏が建てさせた近代和風建築です。昭和 58 年(1983)には建築家の出江寛氏により、塀と門柱及び扉、庭園の改修が行われました。
建物は、主屋(母屋)・寝殿・客殿・湯殿・洋館・土蔵・下納屋・祠で構成されています。
母屋と寝殿、寝殿と客殿は、渡り廊下でそれぞれ繋がっています。また、正面西側の洋館は寄棟造ではありますが、スクラッチタイルに覆われているため、敷地内では独特の外観となっています。これらの建物群には、熟練の大工の技術と選び抜かれた材により、莫大な財と労力がかけられていることがわかります。
また入口の門柱には、由良要塞(陸軍要塞)にあったものが使用されています。
春陽荘 Webサイト
https://shunyoso.jp/ja/top-ja/
主催:洲本市教育委員会 共催:淡路文化史料館 協力:NPO法人鮎屋の滝ふれあいの郷・兵庫県鮎屋川土地改良区・炬口住民会・春陽荘・三野畑町内会 白巣交流推進委員会・洲本市地域おこし協力隊