続日本100名城!洲本城の縄張りを紐解く
山裾の下の城から登山道を歩いて山上の上の城を目指します。東西約800mある広大な城跡の縄張りを巡り、洲本城の歴史から石積みまで徹底解剖します!洲本城を隅々まで知り尽くしたい方におすすめのコースです。
コース難易度 ★★☆
標高差:100m未満
距 離:約5km
主に登山道を歩きます
2021年10月3日開催
洲本城跡さんぽコース
13:00
13:30
14:00
14:45
1. 洲本城沿革
大永6 年(1526)
天文18 年(1549)
永禄7 年(1564)
天正9 年(1581
天正10 年(1582)
天正13 年(1585)
慶長元年(1596)
慶長14 年(1609)
寛永8 年(1631)
2. 安宅氏・仙石氏の時代
淡路の国人衆です。永正16 年(1519)、
淡路国守護の細川氏が阿波の三好氏に滅ぼされて以後、その勢力を拡大し、淡路各地に城を構えました。主な城は、「安宅八家衆」の城と呼ばれており、洲本城もそのひとつに数えられています。
洲本城は、大永6 年(1526)に安宅隠岐守
治興が築いたとされています。『味地草』※1 には、永正7 年(1510)に安宅河内守冬一築城説も併記されています。その後、三好長慶の弟である安宅冬康が入城します。
天正10 年(1582)、秀吉配下の仙石秀久が
5万石で洲本城に入城。秀吉配下としてはじめての城持大名となりました。秀久は、四国攻めの功により、天正13 年(1585)には、讃岐に移ります。
安宅氏・仙石氏時代の洲本城はよくわかっていません。安宅氏の築城時は、石垣の城ではなかったと考えられています。 ※1 『味地草』…江戸時代後期に書かれた地誌
3. 脇坂氏の時代
賤ケ岳七本槍のひとり脇坂安治が、仙石氏に代わり洲本城に入城します。安治は、洲本城の改修に着手し、今に残る総石垣の堅城に生まれ変わりました。
関ケ原の戦いで東軍に寝返った安治は、本領安堵されますが、慶長14 年(1609)に伊予大洲に転封となりました。
図3は、脇坂時代の洲本城及び城下町を描いたものとされています。城下には、現在の内町地区に縦町型城下町が築かれていることがわかります。外町地区は、蜂須賀時代の寛永12 年(1635)の由良引け以後に築かれます。
右図は、上図の洲本城の縄張りを図にしたものです。脇坂時代のものとされていますが、現在の縄張りと異なる点が見られます。また各曲輪の名称も、現在呼称しているものとは異なっています。絵図の信憑性もあり
ますが、廃城後に修復されている可能性もあります。
4. 廃城後
脇坂転封後、藤堂高虎が洲本城を預かります。高虎は洲本城に代官を派遣します。慶長15 年(1610)、淡路一国が池田輝政に加増されます。輝政は淡路島の北端に岩屋城を築きます。
慶長18 年(1613)には、輝政の三男忠雄に淡路一国が与えられ、由良に城を築きます。脇坂以後、洲本城は使用されておらず、事実
上の廃城となりました。
図4 は、江戸時代の蜂須賀期に描かれた廃城後の洲本城です。廃城となりましたが、その威容は健在で、特に2 条の登り石垣が強調して描かれています。
5. 縄張り
洲本城跡の縄張りは、東西約800m、南北約600m(下の城含む)の広大な規模を誇ります。
本丸・南の丸・東の丸が洲本城の主郭部で、この曲輪の外周が高石垣で囲っています。そして本丸・東の丸の北側に下の城より延びる2 条の登り石垣が連結し、城をより強固にしています。その主郭部を補完するように東には武者溜、西には西の丸、南には馬屋が配されています。これら曲輪の呼称は、図3に示されたものと異なります。これは、『味地草』に記されているものを主に採用しているためです。
東の丸は、南北で大きく分かれ、北側が二段郭、南側が水の手郭と呼び分けられています。「東の丸」と一括りにしていますが、曲輪の性格は異なるものです。図5 の西の丸には、多数の穴が確認されますが、これは石切場の痕跡です。その他、北の斜面地に築かれた古屋敷は、脇坂初期のものと考えられています。
6. 石垣
洲本城の石垣は、大きく分けると3時期に分類されます。③に該当する石垣は修復された石垣です。
■ 矢穴
洲本城の石垣には、石切の際の楔を打ち込む「矢穴」が確認されます。この矢穴は、特に隅角部において顕著に見られます。矢穴の大きさは、平均すると上端14.24 ㎝、下端10.60 ㎝、深さ8.78 ㎝を測ります。時代が下ると、工具の発達により矢穴幅が縮小していきます。
■ スダレ状ノミ痕
洲本城の石垣には、「スダレ状ノミ痕」と呼ばれる工具痕が残る築石が見られます。洲本城の各曲輪に見られますが、そのほとんどが矢穴と同じく隅角部にみられます。これは、隅角部整形のためのもので、脇坂時代の後半と考えられ、慶長伏見地震以降の可能性が考えられます。
瀬戸内海国立公園
三熊山園地
三熊山園地は、国の史跡洲本城跡(現在地)、大正時代には島民の祭典の場としても栄えた競馬場跡地を整備した三熊いこいヶ丘、展望台、東園地からなります。
北斜面にはシイ、タブなどの暖帯広葉樹林がよく茂り、木立の中の園路を散策できます。
各展望所からは、洲本城下町、大阪湾、紀淡海峡の眺望を楽しむことができます。
徒歩ですと、近畿自然歩道を利用し、20分ほどで本丸へ到着します。
お車でお越しの際には地図に複数箇所に駐車場があります。本丸から一番近い駐車場からは徒歩5分程度で本丸に到着します。
国史跡 洲本城跡
主催:洲本市教育委員会 共催:淡路文化史料館