洲本城跡

国史跡 洲本城跡

平成11年に国の史跡に指定され、平成29年には続日本100名城に認定されました。

洲本城が「続日本100名城」に選定される

平成29年4月6日(城の日)、公益財団法人日本城郭協会が「日本100名城」に次ぐ「続日本100名城」を発表しました。 1つの都道府県で選定される数に上限がある中、激戦区である兵庫県から洲本城が選定されました。

選定基準は以下の通りです。

1 優れた文化財・史跡であること
2 著名な歴史の舞台であること
3 時代・地域の代表であること

 洲本城_認定証

洲本市の貴重な文化財が、全国の名城の仲間入りを果たしました。

三熊山_洲本城

洲本城みどころ

 洲本城跡は、東西約800m、下の城まで入れると南北約600mと西日本最大級の規模を誇ります。秀吉の大坂城を守るために改修された総石垣の縄張群は圧巻で、特に山裾の下の城と山上の上の城とを結ぶ二条の登り石垣が城をより強固にしており、洲本城最大の特徴となっています。

 平成11年に国の史跡に指定され、平成29年には続日本100名城に認定されました。

アクセス

洲本城の歴代城主とともにその歴史を辿る

洲本城歴代城主

室町時代〜明治時代

安宅 [あたぎ] 氏

大永6年(1526)-天正10年(1582)

安宅氏は、淡路水軍を率いた淡路の国人衆。紀州熊野出身で、観応元年(1350)、足利2代将軍義詮により沼島の海賊退治を命じられ、淡路島に土着しました。その後は、淡路国守護細川氏の家臣として、徐々に勢力を拡大していきます。

永正16年(1519)、淡路国守護細川尚春が三好之長に討たれ淡路守護が滅びると、安宅氏は淡路各地に城を築き、その主な城は「安宅八家衆」の城と呼ばれました。洲本城もそのひとつに数えられています。


天文18年(1549)、安宅氏は三好長慶の弟である冬康を養子に迎えます。それ以後三好氏とともに畿内を転戦し、三好政権を支えていきます。永禄7年(1564)、長慶は家臣の松永久秀の讒言により冬康を誅殺します。冬康亡き後、その子らが淡路水軍を率いますが、天正9年(1581)、織田信長の命により羽柴秀吉が淡路攻めを行われます。この時、安宅氏など淡路の国人衆は、悉く降伏したと伝わっており、安宅氏は歴史の表舞台から姿を消すことになります。

安宅氏家紋

仙石氏

天正10年(1582)-天正13年(1585)

本能寺の変後の天正10年(1582)、仙石秀久が5万石で洲本城に入城、秀吉の家臣としてはじめて国持大名となりました。天正13年(1585)、秀久は四国攻めの功により讃岐転封となります。


安宅氏、仙石氏時代の洲本城の姿は、今のところよくわかっていません。本格的な洲本城普請は、次の城主を待つことになります。

仙石氏家紋

脇坂氏

天正13年(1585)-慶長14年(1609)

天正13年(1585)、賤ケ岳七本槍のひとり脇坂安治が3万石で洲本城に入城します。安治は、秀吉の大坂城を守るため、洲本城を東西800m、下の城まで含むと南北600m、2条の登り石垣を持つ広大な堅城に改修しました。また安治は、淡路水軍を率いて九州攻め、小田原攻め、文禄・慶長の役に参戦しています。秀吉亡き後の関ケ原の戦いでは、当初西軍として参加するも、途中で東軍に寝返り、徳川家康より本領安堵されました。

 慶長14年(1609)、伊予大洲に転封となります。脇坂治世は24年間に及び、城とともに城下町も整備され、現在の市街地の基礎がこの時誕生しました。

脇坂氏家紋

藤堂氏

慶長14年(1609)

脇坂氏転封後、洲本城は藤堂高虎の預かりとなりました。高虎自身は洲本城に在城せず代官が派遣されました。

藤堂氏家紋

池田氏

慶長15年(1610)-元和元年(1615)

慶長15年(1610)、徳川家康の娘婿である池田輝政に淡路一国が与えられます。輝政は、洲本城を使用せず、岩屋の絵島ヶ岡に新たに城を築きます。慶長18年(1613)、淡路一国が輝政の三男忠雄に与えられ新たに由良に城を築きます。

明石海峡、紀淡海峡に面した場所に城を築き、豊臣大坂城に入る船を監視していたと考えられています。元和元年(1615)、忠雄の兄が相次いで亡くなったため、池田家を継ぐため、備前岡山藩に戻りました。
※洲本城は使用せず

池田氏家紋

蜂須賀氏

元和元年(1615)-明治3年(1870)

 元和元年(1615)、大坂の陣の功により、淡路一国が蜂須賀至鎮に加増されます。当初は、池田氏が築いた由良城に城代を派遣し、蜂須賀氏の淡路統治がはじまります。しかし、交通の便が悪いなどの理由から、幕府の許可を得て城と町を洲本に移す「由良引け」が寛永8年(1631)から約4年の歳月をかけて行われました。これにより、洲本は約4半世紀ぶりに淡路の都に復することになりました。

 蜂須賀氏は、三熊山山上の洲本城は使用せず、山麓に御殿(洲本城下の城)を築き淡路統治の拠点としました。至鎮の子、忠英時代に築かれた御殿の一部が「金天閣」として洲本八幡神社境内に移築され、兵庫県の文化財に指定されています。

蜂須賀氏家紋

稲田氏

城下町の引っ越し「由良引け」を主導したのは、徳島藩筆頭家老稲田氏です。稲田氏は、天正13年(1585)の蜂須賀氏の阿波入国時に、阿波九城の一角である脇城主として阿波国に入ります。その後、由良引けを主導し、主に淡路支配を任されました。その石高は1万4500石を超え、大名並みの所領を有した稲田家は、洲本城代や洲本仕置を務めました。

由良引け に関連「国名勝旧益習館庭園」>

稲田氏家紋

コンテンツへスキップ