旧益習館庭園
旧益習館庭園
旧益習館庭園

国名勝旧益習館庭園


 淡路島を代表する武家庭園として、石切場跡を庭園としためずらしい成り立ちが評価され、平成31年に淡路島の庭園としては初の国名勝に指定されました。
全国的にも非常にめずらしい「巨岩を配した独特な意匠」を持つ庭園

国名勝旧益習館庭園

大坂の陣〜庚午事変

由良引け

由良ケ島

  元和元年(1615)、大坂の陣の功により蜂須賀氏に淡路一国が与えられます。

  当時淡路の中心は、池田氏が居を構えた由良でした。しかし、交通の便が悪く、広い淡路島を治めるには適さないため、寛永7年(1630)に幕府の許可を得て、洲本に城と町を引っ越す「由良引け」が翌8年(1631)以降より行われます。

稲田家の別荘の庭園として造られた

寛永8年(1631)以降
旧益習館庭園
旧益習館庭園

この由良引けを主導したのが、徳島藩筆頭家老の稲田氏です。主に淡路支配を任されていた稲田氏は、その石高1万4500石と大名並みの所領を有し、藩内では破格の扱いを受けていました。

由良引けでは、脇坂氏時代の城下町(内町)の西側に新たに城下町(外町)を建設し、その一角に稲田家の別荘(西荘)を建てました。その別荘の庭園として造られたのが旧益習館庭園です。

益習館

嘉永7年(1854)

幕末の嘉永7年(1854)、稲田家の私塾学問所を西荘に移し、益習館と称しました。益習館では、稲田家臣や素封家の子弟が学んでいました。

しかし、明治3年(1870)の庚午事変で徳島藩士の襲撃を受け益習館は焼失、庭園は残り往時の姿を留めています。

洲本城下町絵図

旧益習館庭園みどころ

庭園は、曲田山の北裾で、城下町時代の稲田家臣の屋敷が並んだ下屋敷筋に位置します。

この地は、外町地区の城下町を建設する際の石切場で、城下町建設後に庭園として造り変えられた全国的にも非常にめずらしい庭園です。山裾に東西に長い池泉があり、その護岸に巨岩を配した独特な意匠となっています。

庚午事変後、所有者が移り変わり、明治40年代から大正時代にかけて大規模に改修されたことが、平成28年に実施した発掘調査により明らかとなりました。

淡路島の庭園としては初の国名勝に指定

淡路島を代表する武家庭園として、石切場跡を庭園としためずらしい成り立ちが評価され、平成31年に淡路島の庭園としては初の国名勝に指定されました。

関連リンク
洲本市ホームページ
兵庫県公式観光サイト
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